香港を見る眼:「マニア」からの脱却を目指して

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Les Lieux de Mémoire


イードはその著書『オリエンタリズム』の導入で"true" knowledgeと"political" knowledgeの二分化についての批判を行った。"true" knowledgeが本質的には非政治的であるという前提が共有されている状態では、サイードの「オリエンタリズム」研究は文学研究であった故に、従来前提とされてきた"true" knowledgeの領域を侵犯しうるものであった。*1

今日において、サイードらが打ち出したポストコロニアル評論は広くアカデミアにおいて受け入れられている。しかし、趣味の世界ではどうだろうか。インターネット上のコミュニティーにおいては「政治厨」は時たま忌避される存在である。しかし、時にはある対象の政治性についての認識を得る必要があるのではないだろうか。

私の経験に根ざした論を展開しよう。香港の魅力、または特徴として、「東西文化の融合する地」というものが挙げられることが多い。これは日本国内のみならず、香港の高等教育機関においてもこれをが挙げられるのを私は複数回目撃している。この人口に膾炙した言説そのものに対しても、それがbiasedなものであるという批判が加えられうる。90年代ごろから、香港の文化や歴史は、中原中心的な中国ナショナリズムに回収されて論じられるべきでないとも考えられ、香港の「本土性」が論じられていくと共に、香港文化の肯定は先に挙げた言説を否定した*2。この一例として、「殖民主義的史學」や「愛國主義的史學」を忌避し、「香港本位之史學」*3を追求した蔡榮芳による『香港人之香港史 1841-1945』が挙げられるだろう。蔡のように主体性を以って香港について語ることには至らなくとも、香港をめぐる言説の性質には気を向けるべきである。 

時に、「マニア」は微視的に物事を捉えがちである。私も「マニア」的な人間なので、枝葉末節が気になってしまうことが多々ある。例として戦史研究を挙げるのならば、小火器の仕様のマイナーチェンジのような事柄のみに固執するのではなく、マクロな視点からの政治史や、公的な記録に残されなかった弱者の歴史などをも巨視眼を以って重視するべきだろう。

香港を対象として見る時、 我々は「マニア」的に、近視眼的になってはいないだろうか。また、ミクロな視点に固執するばかり、自らの言説がどのような性質を帯びたものなのか見失ってはいないだろうか。羅永生はある論考で、"Hong Kong success story"に代表される、植民地期を懐古するような言説におけるポスト植民地期における植民地主義復権を指摘している*4が、香港を「マニア」的に論じる時、我々も無自覚的にこのような社会における支配的な論を無条件に受け入れて、ミクロな視点で香港を観察してはいないだろうか。

私は、近視眼的な「マニア」としてではなく、自覚的な「アマチュア」という立場から記述される、特定の事柄に固執しない言説が必要であると思う。私の知っている、ある在港研究者は香港を指して、今日まで続くthe cold war storyと呼んだ。少なくとも、各時代の各場面において歴史的な背景が存在した上に、それぞれの言説が存在した。マクロな視点をも持ち、そのことに自覚的でありたいものだ。

*1:Said, Edward W. Orientalism. (n. p.: Penguin Books, 2019), 9-10.

*2:羅永生(2015)「香港現代思想史:『本土意識』の歩み」『誰も知らない香港現代思想史』丸川哲史鈴木将久、羽根次郎編訳、共和国、51-53頁。

*3:蔡榮芳(2001)『香港人之香港史 1841-1945』Oxford University Press、8頁。

*4:Law, Wing Sang. Collaborative Colonial Power: The Making of the Hong Kong Chinese. (Hong Kong: Hong Kong University Press, 2009), 1-2.